理論計算化学研究室

脂質膜・生体膜系の
分子シミュレーションMolecular simulation of lipid and biological membranes

膜の形態

 脂質膜は構成脂質分子種や溶液条件(pH,塩濃度,温度),または膜と相互作用するタンパクやペプチド,ナノ粒子などの影響を受けて,その形態を変化させます.これらの現象は個々の分子プロセスが様々に絡み合い複合的に生じていることが予想されます.特に多成分の両親媒性分子で構成されている生体膜では,膜の表裏はもちろん膜面内の分子分布も一様ではなく,ヘテロな構造を持つことが指摘されています.これらは膜機能と密接に関係していると考えられ,多くの研究がなされています.これまでに粗視化分子モデルを用いてベシクルの形成過程などの分子シミュレーションを実現しています.混合膜ベシクルでは,その変形の自由エネルギーが単成分ベシクルに比べて小さくなることを見いだしました(Pure Appl. Chem. 2014).これは内部脂質のソーティング(整列)によるものだということがわかってきました.膜と相互作用する分子の混入が膜の形態にどう影響するのかについても,研究を進めています.これらの研究は,薬物や機能性ペプチド,ナノ粒子材料の膜浸透現象の理解を助け,薬物搬送システム(DDS)のキャリア設計や膜に作用する抗菌剤などの開発において重要な知見を与えることを目標に行われています.

DMPC/DOPE混合ベシクル中の脂質分布.

膜融合の分子メカニズム

二つに分かれた脂質二重層膜が一つの連続した膜へ融合する膜融合プロセスは,膜を構成する分子組成,水和,静電力,また介在するタンパク質の存在など,多くの因子によって影響を受ける非常に複雑でかつ興味深い分子プロセスです.生命体のライフサイクルには膜融合が含まれ,また真核生物において膜融合はユビキタスです.細胞の成長,細胞外輸送,その他多くの細胞プロセスは膜融合と関係します.細胞内では,膜の出芽と膜融合のプロセスによって,細胞小器官を壊すことなくその間で分子を運びます.神経系のベシクル膜融合は神経細胞間のシグナル伝達における重要プロセスで,ヒトの病気を引き起こすウイルスはその増殖サイクルで膜融合を使用します.
この生体系における情報・物質伝搬の重要なプロセスである膜融合について,脂質分子の種類・組成変化の影響及び融合タンパク・ペプチドの役割を分子論的に解明することを目指しています.この目的のために,全原子及び粗視化分子モデルを併用した階層的分子モデリング技術を構築・応用し,50 - 100 nmの系の分子シミュレーションを実現しています.これまで不可能であった曲率を持った生体膜の変形,付着,細孔形成,融合などの動的過程を直接観測し,脂質分子の自発曲率やペプチドの膜への結合などの分子レベルの情報をもとに分子集合体構造変化の解析に挑んでいます.さらに膜融合プロセスで見られる融合中間体間の構造遷移の自由エネルギー計算を行い,その分子メカニズムの解明に取り組んでいます(Soft Matter, 2014).

膜と相互作用するベシクル.融合前の状態.

 向かい合う膜面間がストーク(Stalk)中間体を経て融合するのに必要な自由エネルギー障壁の見積もりを行う計算手法の開発に成功しました.平面膜間,平面膜-ベシクル間,ベシクル間の融合について解析を行うと,膜の曲率が融合自由エネルギー障壁に大きく影響を及ぼすことがわかりました.また,脂質組成も大きな影響を与え,PE(phosphatidylethanolamine)ヘッドグループを持つ負の曲率を生成する脂質分子がストーク構造(膜をつなぐチャネル構造)周辺に集積し,ストーク状態の自由エネルギーを著しく下げることも見いだされました.

膜融合のシミュレーションからのスナップショット (Ref. Kawamoto et al. J. Chem. Phys. 2015)

膜透過・輸送

細胞膜は膜内外の区画境界を提供し,基本的に物質(分子)の自由な透過・輸送を妨げます.細胞膜の機能として選択的に分子を透過させたり汲み出したりもしますが,それ以外の場合でも膜のシールド能力には限界があり,分子の“漏れ”が生じています.膜を横切る低分子透過に関する分子メカニズムの解析や透過係数の計算にはこれまでに多くの研究がなされてきています.我々もこれまでにいくつかの自由エネルギー計算手法を開発し,脂質種の変更による透過係数の変化を定量することに成功しています(ex. J. Phys. Chem. B, 2011).また,低分子だけでなく,より大きな分子の透過にも使える計算手法の開発を目指しています.この場合は,脂質膜側の構造変化も重要となりますので,それらを考慮できるシミュレーション手法が必要となります.膜透過は薬物の浸透など,応用に関しても重要な課題が関係しています.
また,膜タンパク(チャネル)を介しての選択的な物質透過の分子論的なメカニズムの解明も重要なテーマと位置づけています.

DPPC脂質二重層膜を横切る水分子の感じる自由エネルギー障壁 大きなヘテロ分子の膜透過を記述するためのいつくかの反応座標(集団座標;collective variables)の候補
(BBA-Biomembrane, 2016)

膜物性評価手法の開発

脂質分子の分子構造と分子集合体である膜の物性の関係を明らかにすることは,分子シミュレーションの目的の一つです.膜物性の解析によって,メソスケールでの振る舞いを記述する連続体モデル(多くの場合Helfrichによる弾性理論モデル)で使用される物理パラメータを正確に求められれば,光学顕微鏡レベルで観測されるベシクルなどの振る舞いを定量的に予測することが可能となると期待されます.また,実験で観測される物理量を比較することにより,分子シミュレーションで用いる分子モデルの妥当性の確認にもなります.このような理由で,膜の表面張力,線張力,曲げ弾性係数,面積圧縮率,自発曲率などを精密に測定する分子シミュレーション手法を開発しています.このような活動の一例として,Irvin-Kirkwoodの定義に基づく局所ストレスの計算をもとにガウス弾性係数を計算しました.この解析を球座標系においても実現しており,ベシクルのような球対称な分子集合体の局所ストレスの解析を可能としました(J. Chem. Phys, 2011,2013).この他,膜の各種変形に対する自由エネルギー変化の評価によって,様々な膜物性定数を調べています.このような研究活動は後述するマルチスケールシミュレーションの確立に向けて,その理論を構築するための基礎データを与えるという重要な意義を持っています.

外部ポテンシャル(黒)により誘起された膜変形.力と曲げの関係から曲げ弾性係数が求められる.

<< 前のページに戻る